首相動静があるように、ケツに青みを残したまま大人になった不肖たちにも日々、なんらかの動静がある。

そんな不肖たちが思いの丈を綴るウェブマガジン。

不・不肖の証明/第1回・所信表明

不肖動静。旧知の仲である関根氏からの誘いで、私もこの集いに参加することになった。首謀者の関根氏曰く、今回声がかかった面子は「ケツに青みを残したまま大人になった不肖」たちらしい。

 

32歳にもなってケツに青みがあると言われるのは、正直恥ずかしくあり反論したくもなる。なんなら、「不肖」という看板のもとに人を集めること自体、非常に失礼である。関根氏はこの行いによって、これまでせっせと積み上げた徳の大半を失ったはずだ。

 

だが、こういう類のことはだいたいが他人の目から見たほうが正しい。なので、ここでは「自分はケツの青い不肖の身なのだ」と一旦は認めておくことにしよう。

 

見事、この不名誉なレッテルを貼られ、招集されたメンバーは私以外に2名いる。首謀者の関根氏をはじめ、いずれのメンバーも和歌山市出身の同級生だ。

 

ところで、自分で言うのもなんだが、私は結構忙しい。その忙しさ故に、正直このクルーへの参加はあまり乗り気ではなかった。(そのうち書くことにもなるかと思うが、妻帯者であり会社員、かつBagus!というバンドのソングライターでありボスなのである)しかし、関根氏が「気張って文章書かんでよろし」と言うのと、残り2人のメンバーが「〇〇なことやりたい! 書くぞ!ひと月に2本くらいは書くぞ! なんならオモシロ企画も考えちゃうもんね~!」と言うので、まあそれなら私が思いっきりサボってもなんとかなるだろう、と思い参加した。

 

だがふたを開けたらどうだ? 関根氏が2本文章を投下したのみで、他は誰も書いていない。インスタグラムもほとんどのポストが関根氏である。

 

不肖だ。クルーの体を装いながらも、関根氏だけが文章とメシの写真を投下し続ける未来も想像に難くない。名は体を表すのであればなおさらである。良い歳の人間ばかりで構成されたクルーの中で一人だけやたら頑張ってるなんて、寒い。

 

関根氏もそれを危惧したのか、先日「いつ文章書いてくれんの?」と催促された。「気張って文章書かんでよろし」の言葉はどこへ? やはり、彼も不肖だ。本筋なら残り2人のメンバーをせっつくべきだ。なんなら、私はインスタグラムにもたまにポストしているし、いつでもポストできるよう下書きにストックもある!

 

これらのことを声を大にして主張しようかと思ったが、私はしなかった(実は少しした)。なぜなら、この状況は私にまで貼られた不肖というラベルを彼に剥がさせるチャンスを与えてくれている、と思ったからだ。

 

そう、私は定期的に文章を投稿することによって、「不肖の身ではない」ことを証明しようとしている。この文章はその記念すべき第一歩なのだ。

 

私は不肖の身ではない! 少し早いがここに断言しておくことにする。おそらく、この不肖動静というコンテンツが、ゆくゆくそれを証明することになるだろう。そして、不肖動静ウォッチャーであるそこのあなたも、その証人となるのだ。これはとても名誉なことだから、今後の更新を見逃さないようにするがよろしい。

 

さて、ひょんなことから2021年の楽しみが一つ増えた。それによって気分も幾分か良くなったので、今日のところはこれにて筆を置きたいと思う。

 

(白川大晃/Bagus!

関根“デッカオ”浩司の瀬戸内移住顛末記

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瀬戸内は香川に越してきて、半年あまりが経過した。関西圏を出るのは初めてのことだから、周囲には「海外留学」「瀬戸の花嫁を探しに」などと吹聴し、意気揚々と海を渡ったわけだが、いいこともあれば、そうではないこともあった。今回、「地方移住」というものにぼんやりしたあこがれを抱いている人に、その実情を少しでも知ってもらいたく、一問一答形式で筆を取りたく思う。判断を迷っている諸兄諸姉にとって、少しでも参考になれば幸甚である。

 

Q. 住み心地はいかが?

A. たぶん、文句を言うのがおかしい。

高松市内の繁華なエリアを少し離れた住宅街に住んでいるが、幹線道路から引っ込んだロケーションもあってか、やかましいこともないしゆったりしていると思う。ただ、電車や飛行機の音、酔っ払いの妄言などが聞こえてこないのはわりに寂しいもので、いくばくかの物足りなさを感じるのは事実だ。ひと通りのナショナルチェーンは揃っているので買い物には困らないが、一方で商店街に出かけてもナショナルチェーンとうどん屋が跋扈している状況なので、これまた寂しい。豆腐は豆腐屋で買いたいわけだけれど、その望みはかなわない。ぜいたくを言っているのは分かる。でも、個人店が生き残れない環境というのは、実際のところ悲しいものである。

 

Q. 交通の便は?

A. 車社会共通のそれはあると思う。

公共交通機関をあてにできないのは、実家のある和歌山も同じだ。そう考えると、地元に骨を埋めるのも難しいのかもしれない。車を持つ気はさらさらないが、おでかけスポットが集積していないことを思うと、この判断は誤っていると言わざるをえない。また、市内の道路はまるでパッチワークのような舗装がなされており、土地が平坦といっても自転車に乗っていれば終始ガタガタと振動にさいなまれることになる。本来、10年はもつ自転車が、2年でお釈迦になるような気がする。どうにかなりませんかね、この道路行政。

 

Q. 楽しいナイトライフは送れている?

A. わりと楽しいよ。

なじみの店ができれば楽しくなってくると思う。街が狭いのも手伝ってか、そのへんのネットワークづくりにはさほど窮することはなかったですね。幸いにしてあるバーで個展めいたものを開くこともできる程度には、打ち解けている。転居半年やそこらでこの状況であれば、御の字どころの騒ぎではなかろう。ただ、いかんせん立ち飲み屋が少ない。大都市に比べて人口が少なく、なおかつ車で帰らなければならない人の割合も高いがゆえに、生中のレートが500円というのも消費者としてはつらい。いや、そうでなければ商売が立ち行かないのは分かるんですけどね。でも、店の絶対数が少ないぶん、おしゃれなバーに出入りできるようになったのは、でかいと思う。いずれ帰阪するだろうけど、すえた店ばかりを好んでいたあのころの自分とは、また違った状態で大阪に戻れると思う。

 

Q. 日々の憩いは?

A. 暮らしに川が必要だ。

海は近いが、思いのほか行くことはない。なんとなくだけれど、体が川を欲しているのだと思う。大阪にせよ、東京にせよ、街なかに川が流れているのが好ましい。結局のところ、人は水のあるところに集まるわけであって、買い物をするにも、お茶をするにも、大小問わず川にぶち当たることが多い環境が、なんとなく憩いになっていたのだと思う。以前、帰阪した際に飲みすぎてしまい、懇意にしている古着屋のお兄ちゃんを連れ出して夜中、堂島川のほとりでお茶をしたことがある。あれは文化だと思いましたね。いずれにしても、この日常が必要だと思った次第である。

 

Q. 瀬戸の花嫁は見つかった?

A. 見つかっていません。

環境を変えれば、ここ数年来の潮目も変わる。そんなことを思っていたけれど、現実はそう甘くない。

 

Q. 移住に必要なものは?

A. ずばり大志。

僕の場合、土地への確たるあこがれがあったわけではなく、単に仕事がそこにあったから移住したに過ぎない。ここまでつらつら書いてきて、結果的に文句の方が多くなっているのが心苦しいが、やはり縁もゆかりもない土地で暮らすには、県の広報紙の裏表紙を飾るくらいの気概、大志が必要だ。第一次産業に従事する、カフェを開く、コミュニティ拠点を運営する、そういう気持ちがあれば、また違った景色が広がるのだろうけれど、残念ながら現状の自分は組織に巻かれないことには、自己管理もおぼつかない。あるいは、イオン的な文化に巻かれてしまうことだろうか。うだうだ考えることなく、ナショナルチェーンの恩恵にあずかることができれば、見知らぬ土地でもうまいことやっていける。それは、こちらに暮らす人を見てもよくよく分かることである。

 

いまさらではあるが、これはあくまでも現時点での関根個人の感想である。ということを表明して、無理やりにこの項を閉じたい。総合的な評価については、もうしばらく時間を置きたく思う。

 

(関根“デッカオ”浩司)

Tバックを断罪せよ

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女の尻にフォーカスしたアダルトビデオというのは、どうしてああもTバック礼賛の思想に裏打ちされたものが多いのだろう。統計的なデータを弾き出したわけではないけれど、僕個人の実感としては、猫もしゃくしもTバック、ブスもオババもTバック、そういった様相を呈しているように思われてならない。看過できない実態だ。

 

考えてもみてほしい。Tバックの造作を。あんなのはもう、ほとんど尻ではないか。いずれむき身にされ、いやほど眼前に展開するであろうはずの尻が、フライング気味にプルプルと揺れている。ガサツな扱いを受けている。ただそれだけのことではないか。物事には段階というものがある。当然に踏まれるべき手続きを何食わぬ顔ですっ飛ばし、強引に尻だけを押しつける。これはもはや暴挙と断ずるよりほかない。

一方で、尻全体を包み込むタイプはどうか。すばらしいのである。まず何より着用時、どこからどこまでが尻であるか、腹部ならびに大腿部と峻別している点がよろしい。ああ、この人の尻圏はこれくらいなのだなとの判断が、極めて容易なのである。「尻フェチ」などという言葉を大々的に喧伝する以上、尻圏の把握は欠くべからざる要件だと思う。どこからどこまでが尻であるかを理解して初めて、真っ当に尻を愛でることができるように思う。そうは感じぬ人もいようが、Tバックなんぞには決してマネのできない芸当であることは確かだ。

無論、フルバックであれば先ほど述べた尻のフライング問題なども起こりえない。身ぐるみを完全にはいでしまうまで、適切なステップを踏みつつ事態は進展していく。心に準備期間を、気持ちに猶予を与えてくれるというわけだ。その点、Tバックはどうだろう。はしごを外すだけではないか。治療費の請求はどうすればいいのか。プロダクションあてでいいのか。

これは何も、映像コンテンツに限った話ではなくて、実地にも適用されうることだと思うが、いち個人の選択について、僕風情がギャアギャアわめいても仕方のないことである。しかし、業界ぐるみのできごととなれば、話は違う。アダルトビデオ制作に携わる諸氏においては、Tバックこそが端的にわいせつ性を高めるといった認識が蔓延しているように疑われてならない。だからこそ、僕は言いたい。いまこそ訣別を、AVマン諸君! さようなら、Tバック

文末になってしまったが、パンティラインがうんぬんといったTバックの機能性に関して、非難の目を向けているわけではないということは、きっちり申し添えておきたい。ともかくも、安易なTバックへの傾斜が、必ずしも万人に受け入れられるものではないことを、志を同じくする人の存在を信じて、筆を置くことにしたい。

 

関根“デッカオ”浩司